映画館で23年ぶりに「もののけ姫」を見るという体験について


既にご存知の通り、今、映画館でジブリ作品が見られる。

直観的に「何か感じることがありそうだ」と感じていながら、実は一度はチケットを買っていながら面倒くさくなって行かなかったくらい、本当に面白いかな?とも思っていた。

ちょうど良い時間にやっていたのは「もののけ姫」だった。

公開されたのは1997年。当時、僕は浪人生活を送っていた。ジブリ作品を映画館で見るのは初めてだった。ジブリというものもよく知らなかった。ただ日本のアニメですごそうな所というイメージだけがあった。

サムライの腕が吹っ飛ぶシーンの予告編を見て、これはヤバイ、と思ったのを鮮烈に覚えている。

見終わった後、あまりにいろんなことを考えさせられて、こんな本を買って、擦り切れるまで何度も繰り返し読んで、「照葉樹林文化」とか、そういうものにも興味を持った。色彩設定の保田さんがシシ神の森の水を「黒」で塗ったという話がすごく面白かった。多分、「ものを考える」ということの入り口に立ったような気がする。

あれから23年、僕は「もののけ姫」をDVDで10回は見ていて、「もののけ姫ができるまで」という8時間もある変態のようなドキュメンタリーも5回くらいは見ている。

さらに言えば、僕には映画館信仰が無い。やっぱり映画は映画館で観ないとね、なんていう考え方はない。ただ何か直観的に、23年ぶりに自分の大好きな作品を、23年前と同じ形で体験したら、何かを感じるような気だけがしていた。

オープニング、深い森の中で何かがうごめく。視線を落とした森の地面を、おぞましい何かが過ぎていく足だけが映る。そしてすぐタイトルが出る。

そこで 既に、僕のほっぺたをツツーと涙が落ちた。

宮崎駿の猛烈な消しようもない炎のような意識が、目の前の巨大な画面からビシビシと伝わってきてしまったのだ。

僕は忘れていた。巨大であることの正義を。

大学時代、旅行で行ったスペインでピカソのゲルニカを見た。その絵のことを知らない人は、必ずその巨大さにビビる。25メートルプールくらいあるのだ。美術の知識皆無の僕は、理解不能のあのピカソ独特の幾何学的な絵を前に、ただただ「なぜこんな巨大なものを…」と佇んだ記憶がある。その時、巨大であること、質量というものは、それだけで正義であると悟ったんだった。

映画館のその巨大な絵は、ビシビシと熱量を伝えてきた。

今さら絶対に新しい発見などないと思っていた。でもシシ神の森の水が、綺麗な透明をしていたのを初めて発見した。

「黙れ小僧!」の名セリフとともに映る巨大すぎるモロの顔の迫力

ジコ坊のしゃべり方からあふれ出る汗のにおいまで漂ってきそうな気配

土のにおいまで感じ取れそうなおっことぬしの鼻のイボ

どれもがもう強烈に面白かった。

そしてもう一つ、気づいてしまったのは、この映画館の大きさに耐えている作品の少なさだ。僕が映画館信仰を持たなくなった最大の理由だ。

「映画館」はただのビジネスモデルであり、創造性に基づいたものではないと思っていたし、今でもまだそうだと思っている。つまり、人から金を取るためには、2時間くらいは拘束する必要があり、どこかの場所に人を呼ぶ必要がある。それが「映画館」なのだ。スクリーンの大きさも、2時間という長さも、人の創造のための必然性ではなく、ビジネスとしての必然性なのだ。映画が2時間でなきゃいけない創造的な理由はない。2時間なのは、それ以上長くても短くても、多くの人から金を取るのには適さないからだ。そして、長らく「映画館」は、ほぼビジネスのために使われてきたと思う。だから僕は勘違いしていた。

でも本来、「これを作りたい!大きな、大きすぎる絵で!」というのは正しいのだということに気づいた。

これから、すべての映像作品はネットフリックスあたりで流したらいいと思う。そしてみんなが熱望すれば「映画館化」作品になるくらいの順序で良いと思うくらい、今日のこの体験は良かった。

「この作品めちゃくちゃ面白かったから映画館化しそうじゃない?」みたいな会話が成立する世の中になれば良いと思う。

もっともっと過去の名作を映画館で流してほしい。ゴッドファーザーを映画館で見て、何を感じるのか知りたい。

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